史跡

明治天皇聖跡碑

明治11年9月19日東海北陸御巡幸中の明治天皇は、流作場の開祖安倍邸に小休止あらせられた。

行在所を記念して、新潟市は昭和10年1月安倍邸門前に聖跡碑を建立した。

平成21年7月27日此れを当神社境内へ移設した。

明治天皇聖跡碑 明治天皇聖跡碑 明治天皇聖跡碑 明治天皇聖跡碑

江戸時代の道標

江戸時代嘉永7年八月(1854)に新潟奉行所で建てた道標で、古くは船着き場であったと思われるホテル新潟の横手にあった。

「北国道」信濃川を渡り赤塚・弥彦と進み中仙道の追分、鳥居本まで新潟を含めて七四次、新潟から高田を経て善光寺まで二八次の旅程で有った。

「奥州道」現在のホテル新潟の前を、三社神社方向へ土手道をたどり、神社裏手の道路へ右折して中川堀沿いに本立寺方向へ進み、古信濃川を船で渡って沼垂稲荷町へ向かう。

沼垂より新発田(しばた)、赤谷、津川を経て会津へ至る。
また、沼垂から松が先、桃崎浜、乙、黒川、関、小国、米沢を経て上ノ山に至る。
さらに、秋田方面へも行く街道であった。

安倍邸に長く保存されていたが、平成八年神社御鎮座及び開村二五〇年を記念して、斎行された流作場二五〇年祭の後、平成十年境内に移設した。
新潟市にとっても貴重な文化遺産である。

江戸時代の道標

創架萬代橋碑(そうか よろずよはし いしぶみ)

明治19年初代萬代橋が八木朋直氏によって信濃川に架けられた。
此の業績を讃えて、明治45年5月8日安倍九二氏ほか流作場、沼垂の人々の芳志によって、三社神社境内地に建碑された。

碑文の題額の文字は、上杉家大14代藩主伯爵上杉茂憲公の筆に成る。

八木氏は、上杉藩士である事の縁による。
因みに八木氏の号は、橋架翁、柳雪などがある。

創架萬代橋碑(そうか よろずよはし いしぶみ) 創架萬代橋碑(そうか よろずよはし いしぶみ) 創架萬代橋碑(そうか よろずよはし いしぶみ) 創架萬代橋碑(そうか よろずよはし いしぶみ)

社殿内風景

さざれ石

今上天皇御即位20年を奉祝して奉納されました。

「さざれ石」とは小さい石の事です。此の岩石は土の中で長い年月を掛けて小さい小石が寄り付き固まって岩と化した物です。

国歌「君が代」の一節に「さざれ石の巌と成りて」とうたわれているのは此の事です。
何万年も掛けて小石が巌と成る様に、国土の永久安泰と繁栄を願って詠まれた和歌です。

此の「さざれ石」は宮城県登米市の山中で発掘されて奉納されました。

添え碑の国歌は当神社所蔵「東郷平八郎閣下」揮毫(きごう)による物です。

社殿内風景 社殿内風景

玄的の青蛙

玄的の青蛙(げんてきのあおがえる)

当地流作場は延亭3年(1746)に安倍玄的様が信濃川の島嶼を開拓して住家15軒にて玄的村を開くに始まる。

元来水損地のため、文化4年・5年(1807・8)3度の大洪水に襲われ壊滅的状況に至り廃村を決意した。

然し、其の惨状の中で沢山の青蛙が力強く生きている姿に村人達は発奮して自らを「玄的の青蛙」と呼び水と戦い水と和して村を再建したと言い伝えている。

今日の繁栄は先祖達「玄的の青蛙」の不屈の努力に依ってもたらされた賜物である。

当地に起業し本年会社創立満70周年を迎える
東和造船株式会社代表取締役五十嵐由之氏は禍を福に変えた開拓者の功績を称え此の伝説を後世に顕彰して全ての人の幸福を願い之を建立する。

平成27年12月 吉辰 宮司謹白

玄的の青蛙(げんてきのあおがえる)

全て善き事にかえる

境内地内に、小さい蛙さんが5匹隠れています。
大きい蛙さんと合わせて6匹、
「幸せ迎える」となります。
参拝された際には、どうぞ探してみて下さい。

創架萬代橋碑(そうか よろずよはし いしぶみ)
loader